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おもに劇団⭐︎新感線まわりの怪文章を投げています

怪文章:偽義経冥界歌で主人公は「自分のために」を手にする

 
ネタバレしかありません!!!!未観劇でネタバレ避けたい方はすぐ閉じてください!!!!
 
 
義経冥界歌(戯曲版:偽義経冥界に歌う)見ました?
私は石川県でやっと観劇成功し、同行のワカドクロを1回DVDで見ただけの友人(ついてきてくれてありがとね)に「私の教祖中島かずきが最高なんですけど」と猛り狂う姿を見せたんですけど、みなさん気持ちはおんなじですよね?
 
義経冥界歌は最高という以外に、特に感想いらない疑惑……ありますよね?
雑なオタクなので同行オタクにゾンビランドサガみたいな感じだと思う」とのたまい、事実幕間に入った瞬間(マジでゾンビランドサガの可能性が出てきたな)と慄いたんですけど、あんなん(あんなん)ではちゃめちゃなのになんかいい感じに着地する中島かずき×いのうえひでのりのケレンがガンガンに効いた良い作品だったと思う。身内での争いに規模が縮小されてしまうので、ここまできたらもっとぶっ飛んでよかったんじゃないかとも思う部分はあるんだけど、観劇後残る、そこはかとない虚しさ、好きなんですよね……。この手のかずき作品、思ったより喉越しスッキリじゃんにごまかされて、口のなかに残る砂利に帰り道で気づくので、地道に後引く。いいよね……中島かずき……。
 
いやそれより、この物語が中島かずきから「主人公」に贈られた「主人公讃歌」であることに感動したので私はこの文章を書いています。まっとうな作品の感想が読みたい方は正統な論文兵士に頼っていただけると嬉しいです。あっこの記事は怪文章です。あと一回しか観てないので色々ガバだけどキマッてしまったんだな〜と思って読んでね!
 
 
主人公!主人公が好き!
 
 
私は中島かずき脚本の主人公が大好きなんですけど、マジでアンハッピーでいつも泣きを見てる。特にここんとこは捨之介とかいう生き地獄とか飛頭蛮とかいう別になにも悪くなかった人とか、ラギ、ラギはもう……そんなかわいそうな目に合わなくたってよくない……!?みたいな……。
 
とにかく、おポンチじゃない中島かずき脚本の場合、主人公がそのもっともおっきな歯車として転がされ転がされ惨めなほどにもてあそばれる傾向にある。物語のどんでん返しが多ければ大きいほど、奔流にもてあそばれてめちゃくちゃに痛めつけられていくのが主人公なんですよ。もともと主人公ってそういうもんじゃん?ってご意見もあると思うんですけど、こと中島かずき脚本のヒーローはその傾向が強いので私はいつも概念の捨之介を膝に乗せて抱きしめて泣いています。(2017年はもっともホットな膝のせ主人公として花捨をお膝にのせて抱きしめました)
 
主人公、いつでも誰かのためばっかりに動いて自分をないがしろにする。
主人公、光であれと魂に刻まれたかのように性善を信じてしまう。
主人公、自分を省みろと言われても理解できない。ゆえに正義が独善の裏返しにさえなってしまう。
 
辛い……とても辛いですよ……。主人公が何をしたの?こんなに頑張ってるのに、一生懸命やってるのに、なかなか「爽やかなヒーロー」や「頑張っている男」以上になれない男。誰かに許されるよりも、誰かを許すことを役目として背負っている男たち。
 
反動で朧の森を見ないとやってらんねえよな!!!なあ主人公オタクのみんな!!!!
 
なので主人公オタクのわたしは偽義経にめちゃくちゃ、めちゃくちゃ救われてしまって、もう……感無量ですよ……中島かずき先生…………本当にありがとうございました…………開始五秒で「くろぴとじろぴに変なことするんでしょう!!いつもみたいに!!」って疑ってすみませんでした……次郎は絶対ひどいめにあって死ぬと思ってた……。
 
義経、主人公が報われたかというとあんまりそういうわけではないんですけど、
「主人公が自分自身のために動くことを肯定される」物語だったので、それだけで私は本当に嬉しい。
 
たとえば髑髏城の捨之介は「自身を肯定できなくなった自分」を「他者に肯定される」ことによって進むことができる。それは祝福のようであって、一方で「彼自身が彼を肯定できない」欠落が最後まで埋まらなかった、というあらわれでもある。多くの主人公は自己を「他者に肯定」されて、自分自身を自分のために使うことはなく物語を終えていく。
 
義経も終盤まではずっとそうだった。久郎は透明でからっぽでよく転がる「ガラス玉」で、他者の思惑に踊らされて、大きな力に流されて、それを自分自身の意思と取り違えて動いていく。がらんどうの主人公として描かれつづけていた。
 
だが、彼は「自身はがらんどうである」と気づいたうえで、自分自身に「自己」というリソースを傾けられなかった自分を目撃したうえで、他者の力を借りつつ自己との向き合いを果たす。ここで重要なのは、久郎が果たす「自己の肯定」が他者である静歌・次郎の力を借りつつではあるものの、静歌・次郎によってもたらされたものではない、という点だ。作中でも語られる通り静歌・次郎が久郎に与えるのは「他者目線からの肯定」ではなく、久郎という人間が自己と向き合う機会の創出であり、この時点で他者による主人公像の肯定とはまるで違う流れへ物語が進んでいくことがわかる。
 
死者として復活した久郎は、これまで久郎を利用してきた人間たちを逆に「利用」し返し、ガラス玉を「鏡」と取って自身を見つめ直すことになっていく。この流れは圧巻で、このあたりで私は高濃度の中島かずき最高エネルギーを脳に直接流し込まれ泡を吹きそうになっていた。これは主人公から「世界」への反撃だ。「世界」を反映するために主人公をガラス玉にし続ける物語という大きな流れに対して、主人公という人間が身ひとつで行う反撃。久郎は主人公を脱却することなく、あくまで主人公の領域に従って反撃を為し、他者を見ることで着々と自己形成を行なっていく。
 
戦いは久郎の優勢に運ぶが「他者を斬れば自分も斬られる」という矛盾に久郎は痛めつけられていく。正直なところ、物語を畳むために必要な要素、と感じてしまう部分もあるんですけど、これはすごく重要な流れなんですよね。「他者のなかに自己を見出した」のであれば、不都合な部分のみ影響を受けずにいられる、というのは虫の良すぎる話で、そういった都合の良い部分だけ恩恵を受けがちな主人公が逃げずに「反撃に対する反撃」も痛みとして受け入れてくれたのはとても良かった。
 
最終的な牛若〜秀衡戦も、一連と捉えるよりか「VS牛若」「VS秀衡たち先祖」の二戦と見るべきかなと。
 
鏡に鏡を映せば、さらにその内部にも鏡が映る。お互いを鏡にしあう、というのはそういった永遠入れ子構造の深い依存を受け入れることにもつながる。物語序盤で生死によって関係性を反転させた牛若と久郎は、久郎という人間にとっての、等身大の鏡。久郎というひとりの人間として挑まなければならない一戦。
 
そのうえで、彼自体の世界を取り巻き、その象徴ともなりうる父・先祖たちは久郎という人間が自己と世界を図るための大きな鏡になっている。一人の人間として立ち位置を確立した久郎が「主人公」という役割として挑むべき相手が父たち。「牛若」を倒さなければこの父たちには勝てない。ラストバトルになっても良かった、というより青春譚・偽物vs本物の構造を強調するのであればラストバトルにふさわしかった「牛若戦」がラストにこないのは、そういうことなんだと私は思ってます。
 
「対牛若戦」と「対秀衡〜先祖戦」は彼が自分の内側での自己獲得→自分の外側(世界)での自己獲得を確立するための、ちがった二枚の鏡。そのうえで、それらを鏡にして自己を獲得する久郎は、主人公補正に左右されず痛みを受けなくてはならない。
 
物語はいよいよ本物のラスト、昇天する久郎へと移っていく。
この締め方が本当にすばらしく私としては感無量が極まりすぎて指10本すべての先っちょが熱くなってしまいました。
 
「私だけじゃいやだ。お前も歌え」
 
そう!!!!!!!!そうなんだよ!!!!!!!
そうなんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 
ずっとずっとずっとずっと、主人公たちに言いたかった言葉だった。
お前が、お前を愛せよ。お前がお前を見て、お前がお前自身を肯定して、誰かにしてあげて、してもらうんじゃなくて、自分のために生きてくれよ。自分のために自分がやりたいことに躍起になってくれよ。その言葉がたった5文字の「お前も歌え」で代弁された瞬間の感動ときたら!!!
 
そして、そんな静歌の言葉を受けての返しが
 
「ああ、そうだな(中略)誰でもない俺でも、歌っている間は俺の歌だ」
 
であった瞬間、もう……何を申し上げていいか……ありがとうございます…本当に…。
そうだよ、歌っている間はお前の歌なんだ。お前の人生は誰が何を言おうとお前がなんと言おうと、お前自身の人生で、お前のための人生なんだよ。そんな長年の「数多の主人公たち」への思いが、叶えられた気持ちになった。
 
誰でもなくたっていいんだよ。主人公じゃない、役割のないお前でいいんだよ…いいんだ……。
 
主人公が、自分ひとりのために歌うことを世界に許され、何より自分自身に許されたこの結末。偽義経冥界歌は「主人公讃歌」の物語としてとてつもなく美しかった。素晴らしい物語だった。
 
その主人公讃歌が壮大なオペラでも、新感線が愛するメタルでもなく、淡々と紡がれる三人きりの素朴な歌であったことが「偽義経冥界歌」のこのうえもない魅力だと思う。主人公が荷を下ろし、ひとりの人間に着地をする。派手でもなんでもない等身大の結末によって、偽義経冥界歌は「壮大な大河ロマン」ではなく「奥華玄久郎という青年の青春成長譚」として結実する。
 
これだけ動乱づくしの本編のなか、ここまで主人公にフォーカスしきって、主人公のための物語を生み出してくれた中島かずき御代、いのうえひでのり御代、そのほかキャストの皆様に対しては心の底より畏怖、敬意、感謝の思いしかない。次わたしが偽義経を観れるのは東京公演というだいぶ先の話になるので、いまこの時に感じた感謝と感動をここに著しておきたかった。たとえそれが、勝手な救われ全開の怪文章だとしても。
 
ありがとう。偽義経冥界歌。
2月ってあと何日寝たら2月ですか?